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『ある男』感想(亀山 郁夫)

2018年10月号の文學界に掲載された、平野啓一郎デビュー20周年記念企画「平野啓一郎の世界」。同誌に掲載されたエッセイ・作品論・対談記事を公式サイトでもお届けいたします。

AIやビッグデータが、私たちの生活様式に大きな変容を強いるなか、小説のジャンルそれ自体にも確実な変化が現れつつある。ネットの存在をぬきに真にリアルな小説空間を構築することなどもはや不可能なのではないかという疑念さえ頭をもたげる。人間が生きてあるかぎり、物語ないし物語性そのものへの欲求が枯渇することはないが、ネットのない時代を扱った小説に、未来の読者がどこまで素直に反応できるのか、と問われたなら、だれもが回答に窮するはずだ。そんな近未来の現実や小説の危機をいち早く察知し、自らのテーマとして先取りしてきた作家の一人が平野啓一郎である。平野の問題意識は恐ろしくラジカルである。

平野はこれまで、ネットが切り結ぶ人間関係の危うさを注視し、そこに何かしら悲劇的なサインを読みとることでいくつかの作品を構築してきた。秋葉原無差別殺傷事件を予告したとされる長編『決壊』がその一例だが、この小説に描かれた悪魔的人物・沢野崇こそは、現代の日本文学が描き出した最大のヒーローの一人と呼ぶにふさわしい(特筆すべき点は、この人物の造形が深くドストエフスキーのそれを予感させることだ)。

平野はこの小説で、ネットを媒介にして全能感にひたる小さな「悪鬼」たちの姿を描く一方、都市と地方のメンタリティの落差に焦点をあて、ネットの侵入が旧世代の人々の信頼関係をグロテスクに切り裂いていく光景を描き出した。そしてその対立的構図を下敷きとして、家族とは何か、愛とは何か、運命とは何かをめぐって愚直といえるほど真摯な問いを重ねてきた。

今回の新作『ある男』も、ある意味で『決壊』の延長線上にある作品といえるが、『決壊』におけるほど剣呑な予感に呑みこまれることなく、小説いや文学が本来もつべき生命力をしたたかに蘇らせてみせた――。これが、まず、八時間の熱読ののちに生まれた最初の感想である。

三重県で起こった一家放火殺人事件の犯人の子という宿命を背負った一人の男(原誠)が、その烙印を逃れようとして逃走を重ねたあげく、宮崎県の田舎町に流れつく。他方、群馬県のある温泉旅館の次男坊に生まれ、恵まれた青春時代を送った一人の青年(谷口大祐)は、家族的なしがらみへの憎悪から愛する恋人も捨てて敢然と行方をくらます。二人の運命は、戸籍交換(「身許のロンダリング」)を介して一瞬相交わるが、逃走の試みそれ自体はいずれも悲惨な結果に終わる。前者は、森林伐採の作業中に事故死をとげ、後者は、今まさに零落の瀬戸際にある。

ところがここにもう一人、みずからの出自にまつわる偏見に耐え、漠然とながら「逃走」を夢見る第三の男が存在する。それこそは、前者すなわち謎の人物「X」(原誠)の足跡を執念深く辿ろうとする主人公の弁護士・城戸章良である。そしてこの城戸の身にも、――高校時代に日本に帰化し、自らの出自を消し去った「在日三世」である彼自身の身にも、妻の不貞という不幸が忍び寄る。この三者の運命が交差する地点に物語は成立するが、タイトルの「ある男」は、まさに彼ら三者の総称とみるのが妥当である。

もっとも、私たち読者の多くは、否応なく謎の人物「X」の正体探しに釘付けとなる。「X」は、中学校、定時制高校と暗く惨めな十代を送ったあとボクサーとなり、東日本新人王にまで上りつめるが、さらなる栄光への挑戦を前に姿を消した。身元の露見とバッシングへの恐れが、そうさせたのだ。ボクサーへの道を選んだこの男の動機をめぐって、登場人物の一人は、暴力への衝動をコントロールしたいという渇望があったと解説する。

人間は自分の血を選べない。この不条理な現実に対し、ネット社会はすさまじく不寛容である。ネットそれ自体が、しばしば不特定多数の悪意を糾合する抑圧マシーンと化すからだ。しかし、最大の悲劇はむしろ血そのものにある。だれの戸籍を引き継ごうと、出生と同時に授かった身体の檻だけは抜け出すことができない(「人間の最後の居場所であるはずのこのからだが地獄だというのは、どんな苦しさだろうか」)。「実存は本質に先立つ」とはサルトルの言だが、ネット社会において「実存」は夢物語にすぎず、出生すなわち「本質」の圧倒的な優位の前に屈従を強いられる。

物語全体に、二つの大災厄の記憶が覆いかぶさる。遠く関東大震災から近くは東日本大震災の記憶。興味深いことに、二つの大災厄があぶりだしたのは、出生=戸籍の問題であり、スケープゴートのイデオロギーだった。大震災後の日本に跋扈するヘイトスピーチにしろ、ID管理を介する驚くべき監視システムにしろ、人間の集団的な悪意は野放し状態となって、脛に傷もつ人間をとことん虐げていく。いや、罪なき人間までが、憎悪と監視と疑惑の罠にかけられ、徹底的にプライバシーをはぎ取られる。この、恐るべき不寛容な社会で、いかに過去の烙印を免れ、自己の幸福を守りとおすことができるのか。その、悲劇的ながらも一個の希望に満ちたケーススタディとしてこの小説は存在する。

とくに強調したいのは、平野が、読者の心にじわりと届く数々のエピソードに併せて、日常生活の底にひそむさまざまな欲望の交錯を、その欲望が切り開きかねない世界の危うさと合わせて丹念に書き込んでいる点である。平野の小説をしばしば支配するのは、一種のカイン・コンプレックスとも呼ぶべき兄弟同士の葛藤だが(あるいはより広くジラール風の「三角形的欲望」と呼んでもいい)、まさにこの根源の亀裂ともいうべき困難を、人間はどう乗り越えていくのか。

平野は、登場人物一人ひとりの言動に綿密な動機付けを与えつつ、「受け入れ」と「許し」の可能性をめぐってひたすら思索を重ねていく。謎の人物「X」と妻の里枝が経験するつかのまの愛と、その愛の光景の記憶こそが、まさにその回答ではないだろうか。その回答が、回答それ自体としてどれほど無力に感じられようと、その回答をめぐる思索ぬきで文学の生命力について語ることはほとんど無意味に等しい。

 

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